はじまりは心霊写真。フォトレタッチ200年の歩みとブレイクスルー

はじまりは心霊写真。フォトレタッチ200年の歩みとブレイクスルー

虚実の境を彷徨うフォトレタッチ。

その歴史は1814年に世界初の写真が生まれた直後まで遡ります。およそ200年の軌跡を主なブレイクスルーと秘話で振り返ってみましょう!

「カメラ」はラテン語やイタリア語で「部屋」を意味します。「カメラ・オブスクラ(暗い部屋)にちっちゃな穴を開けると、上下左右逆さまに風景が壁に写る」という、摩訶不思議な自然現象に古今東西の賢者が瞠目し、そこからカメラ・オブスクラで絵を描くようになって、そこから生まれたのがカメラというわけです。

上下逆さまの像が写る現象は墨子、アリストテレスも大昔に気づいていましたけど、西洋に広まったのは光学の父イブン・ハイサムの主著『光学の書』のラテン語訳から。この書に影響を受け絵に活用したのはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初らしく、1490年には絵で使うよう弟子に指導していました。1502年の手稿にもこう書いています。

日光が当たる建物や風景に面した部屋に穴を開けると、開口部を通って壁に逆さまに像が投影される。この像を白い紙に当てると、いくぶん小さくて上下アベコベではあるが、自然な形と光をキャッチできる。穴のそばに薄紙をかざして後ろから眺めてごらん。光を弾いた像が、本来あるべき色のまま見えるから。( ヨーゼフ・マリア・エーダー著『写真史』より)

ダ・ヴィンチは人の目ん玉をぐつぐつ煮たり、解剖したり、いろいろやってるうちに、「像はカメラ・オブスクラみたいに上下逆さまに目ん玉に入ってくるっぽい」ことまでは突き止めました。でもそこからどうまた上下逆さまに脳に認知されるのかまではわからなかったようです。鏡文字のダ・ヴィンチらしいですね…

穴から入ってくる光はとても微弱ですけど、ここにレンズを当ててやると像が鮮明になります。そのことに気づいて1550年に発表したのがイタリアのジェロラモ・カルダーノ。やがてナポリの物理学者ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタが1558年にこれを画法として紹介する本「自然魔術」を書いてベストセラーとなり、カメラ・オブスクラの箱を持ち歩いて絵を描く旅がちょっとしたブームとなりました。

人類初の写真を撮ったのは1824年、フランス人ニセフォール・ニエプスです。ちっちゃな穴から入る光を、8時間かけてじっくり板に直接焼き付けるもので、仕上がる写真は1枚だけ。複製はできません。死後その遺志を継いで銀板でこれを1~2分に縮めたのが同じくフランス人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲール。

やがて、ダゲールの宿敵とも言うべき英国人ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが現れ、ネガポジを発明し、焼き増しが可能に。使い方を教わったカルヴァート・リチャード・ジョーンズが地中海撮り歩きの長旅に意気揚々と出かけ、マルタ島に4か月滞在したとき修道士5人の写真を撮り、1人だけずっと後ろで浮いてる修道士を墨で塗り潰し(冒頭の写真)、世界初のレタッチフォトとなりました。焼きあがった写真を見てみましょう。

やがて時は流れて1860年代。海を渡った新天地では国の雌雄を決する南北戦争(1861~65年)でアメリカ人が激戦を繰り広げていました。虫けらのように死んでいく人びと。嘆き悲しむ遺族。そこに現れたのが、黄泉の国から故人を写真に蘇らせるウィリアム・マムラー。人類初のフェイクフォトグラファーです。

しがないボストンの木版画家だったマムラーは、1860年代はじめに撮った人物写真に死んだ従妹が写っていて(世界初の心霊写真として有名)、腰を抜かして周囲に見せてるうちに、「おまえ交霊とかイタコの才能あるんじゃねえの」と言われ、だんだんその気になって心霊写真家に転身。死んだ人との記念写真を撮るビジネスはNYで大当たりとなります。

朝から晩まで暗室にこもって、あの世の人を焼きつけるマムラー。あまりの繁盛っぷりに嫉妬した写真家たちは何度もマムラーの暗室に足を運んで詐欺の証拠を掴もうと(あわよくば技術を盗もうと)したんですが、確かな証拠はあがらずじまい。人気は衰えるところを知りませんでした。

しかしマムラーはだんだん図に乗って「故人との性交写真」の通信販売にまで手を広げ、足がついてしまいます。これは会いたい故人の特徴を教え、お金を送ると、生前の仲睦まじい写真が仕上がるという、現代のわれわれですら思いつかない画期的サービスだったんですが、ある依頼主に夫人との仲睦まじい写真を焼き上げて届けたところ、夫人はまだぴんぴん生きていたため、「なんかおかしい」という噂が急速に広まりました。詐欺・窃盗で訴えられてNYの刑務所「The Tombs(墓場)」に投獄されて人生が暗転。マムラーは最後は無一文でこの世を去ってしまったのであります。

写真修正技術は二重露光と言われていますが、具体的な加工技術は最後まで謎のままだったため、裁判でも有罪にはなりませんでした。もちろん社会的信用が地に落ちてからはボストンに戻って普通の写真を撮っていたようです。でもこの時期に珍しく残したのがこちら。

こちらもおそらくは二重露光と言われていますが…さて? リンカーン大統領は 暗殺の予知夢でも有名な心霊界の冥王です。信じるかどうかは、あなた次第。

死んだ人とツーショットするのにちょっと遅れて流行ったのが「Tall-Tale photo」(ほら話の写真)です。百年前も今も人類はたいして進歩してないようです。ほかにも巨大キャベツ、巨大コーン、圧倒的に優位な戦闘シーンなどあり、素朴な当時の人の中には信じる人もいたようです。

この時代には、以下のような道具が使われていました。

・絵具

・消しゴム

・筆

・エアブラシ

・ルーペ

・ぶれない手

はじまりは心霊写真。フォトレタッチ200年の歩みとブレイクスルー

こちら、アナログフィルム時代の写真編集といえば、かならず出てくる1枚。デニス・ストックが撮った写真を、暗室編集マスターのパブロ・イニリオ(マグナムNY本部暗室技師)が編集しているのですけど、その指示は数字の羅列(露光時間)で、まるで暗号です。「い~ち~に~い」と数を数えながらフィルム現像していた私とはえらい違い。百年ちょっと前の人たちが8時間かけて焼いてたものが、もうコマ秒刻みになってます!

当時の写真編集は何枚も何枚もいろんな露光時間で焼いて、それぞれの色を比べて…という気の遠くなるような作業でした。

時は流れて30年前。「30年前」と聞いてピンときたみなさまは毎日使ってる人かな。そう、Photoshop。これは1988年誕生です。上の写真はPhotoshop開発者トーマス・ノールさんの弟ジョン・ノールさんがタヒチを旅したときに撮ったジェニファー夫人。この後、プロポーズし、今も仲良く暮らしていますよ。

Photoshop開発者2人の父親はミシガン大学アナーバー校教授。写真とパソコンが大好きで、家にはApple II Plus、地下には暗室まで持っていました。やがてトーマスさんはミシガン大の研究員となり、ジョンさんはサンフランシスコ北のジョージ・ルーカスの「インダストリアル・ライト&マジック(ILM)」で特殊効果をやるようになります(夫人は同僚)。で、兄トーマスさんが片手間に書いた写真加工ソフトが弟ジョンさんの目に留まり、社内で使っているピクサーのと大体おんなじや!と仰天。兄にいろいろ注文をつけて完成させ、シリコンバレーで営業回りをはじめたのです。

しかし、アプリはできたものの、肝心のデジタル写真がなかなか手に入りません。デジタルに加工する機械が当時は本当に貴重だったんですね。けっきょく友だちが働いていたAppleの先端技術研究所に行ったときに、フラットベッドスキャナーを使わせてもらって、この思い出の写真をデジタルに加工してもらって、デモで使ったら大ヒット。Adobeの目にとまって契約が決まり正式発売となりました。まさに幸運の女神です。

以下の動画でAdobeにデモしたときの模様を再現してくれてるんですけど、ここからマジックワンド(魔法の杖)でクロップして隣に貼り付けてジェニファーさんのクローンをつくってますよ。後ろの山を左右反転させて小さく薄くして遠近感を出したり。湖の色を青から緑にしたり。なんかひとつひとつの操作に素朴な喜びがありますよね。

Adobeからリリースとなったのは1990年ですけど、当初は社内でも「月500本も売れれば上等」と思われていたようです。フィルムレタッチが出版界の常識だったので誰もその価値に気付けなかったんですね。なんせ写真を加工しても1枚出力するのに1000ドルかかってたらしい…。昔の人はえらい金持ちだったんだあ…と思っちゃいますけど、Photoshopが世に出る前はもっともっと高かったんですよ! 上の動画で弟ノールさんがこう言ってます。

同じことはほかのシステムでもできたんだけど、ものすごく高かった。プリプレスハウス(刷版工房)に行かなきゃならないし、行くと赤いタイマーがあって、時間で借りる式でね。一度サイテックのシステムの見積もりとったら、1時間900ドルだった。しかも操作は全部オペレータで、自分はその人の後ろに立って、あれこれ指示する、みたいなことやってたんだ。Photoshopは自分のマシンで、自分で操作できる、というだけですごいことだったんだよ。

まあ、これから先は同時代なので中略。コンピュータが爆発的に普及してPhotoshopの天下となります。ただ、まだプロのたしなみだった時代ですね。

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本当に写真加工が下々の「その他大勢」にまで生き渡ったのは、やはりフィルター以降ですよね。ちょっと懐かしい感じのInstagramが生まれて、スマホシェア時代の波に乗り広まりましたけど、あのレトロな世界観は、Instagram共同創業者ケヴィン・シストロムさんがフィレンツェ留学したときの体験が土台になっています。

大学2年のときシストロムさんは留学を考えたのですが語学が苦手だったので、「一番簡単」だと言われたイタリア語を選び、写真を学びにいきました。うんと貯金して最高のカメラとレンズを揃えていったんですが、チャーリー教授にいきなりとりあげられて、「おまえはパーフェクトな写真を撮りにきたのではない。これは3か月禁止な」と言われ、ホルガの二束三文のトイカメラを渡されてしまいます。ボディもレンズもプラスチックで。下手すると箱に横から光も入ってきます。えーと思ったんですが、「おまえはインパーフェクションを学ぶのだ」と言われ、撮り歩いてみたら、これが妙にいい風合いなのですね。撮ってきた写真はボケボケで、モノクローム。そこに色をつけたりする方法を、チャーリー教授は教えてくれました。

その素朴な光の美しさが忘れられず、後に再現したのがInstagramです。Instagramの写真が四角いのはホルガが四角いから。上の写真は創業当初のものですけれど雰囲気わかりますよね。

タルボットもイタリアに新婚旅行に行ったとき、カメラ・オブスクラで美しい風景を描こうと思ったんだけど、うまく描けなくて、ずっと後になって開発したのが焼き増し技術。イタリアの旅には何か人の心を掻き立てるものがあるのかも。

ちなみにInstagramのフィルターを生んだのは、妻ニコールさんとの間のこんな会話でした。Instagramの前身のBurbn(使い方が複雑過ぎて不人気だった)を見ながら、こう言ったんです。

ニ:わたし、写真の投稿なんて絶対ムリ。グレッグ(共通の友人)みたいに上手に撮れないもの。

シ:ああ、グレッグは全部フィルターかけてるからね。

二:(夫の顔をまじまじと見て)だったらフィルター作ってよ。

シ:あ、そか。フィルター要るね。

で、ちょうどメキシコを旅行中だったので、B&Bのダイヤルアップ接続でネットにつないで、フィルターのコードの書き方を調べて、その場でちょちょいとアプリに足してやった…これがInstagram初のフィルターとなりました。ちなみに名前は「 X-Pro 2」。2010年当時の携帯カメラで撮った平均点以下のヘタックソな写真も絵本から抜け出たみたいなエフェクトになるやつで、今も人気フィルターTOP10に入ってます。愛を感じますね。

フォトレタッチの200年、いかがでしたか? 本当はこのあとにAIの話が入るはずなんですけど、愛を感じたところで終わりとしましょう。

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https://www.gizmodo.jp/2018/03/what-is-adobe-sensei.html

Sources: New Yorker, CNBC, New Yorker, Masters of Scale